じゃぶらふきゅーさんから頂いたボカクリ感想について

どうも最近、肩こりやら何やらでお疲れモードですが、おはようございます。
ちょっと目を酷使し過ぎているのかもしれません。

さて、みなさんおなじみの音楽通じゃぶらふきゅーさんが、拙稿を含むVocalocritique vo.5について感想を述べていらっしゃいます。
『Vocalo Critique』 vol. 05感想
ほんとうにありがたい話で、僕のように感想を言葉にしたくても億劫がってしまう人間にとってはこのことだけで感謝に値するのですが、その内容もさすがじゃぶらふさんといった充実ぶりです。
(感想の読者が原稿の内容について察することができる程度には元の原稿の趣旨をしっかり紹介しつつ、同時に感想を述べる人独自の疑問や着想をも盛り込んでいる、お手本のような感想ではないかと思います。)

基本的に僕は、何らかの考えの原稿を投げたとして、それに対して誰かがまた考察を投げる、そういうプロセスが働く限り、思いつきを原稿化しても良いと思っていて、掲載稿もそのような意図で書かれたものなのですが、じゃぶらふさんが膨らませた部分について、少しだけ考えてみたのでメモのように述べておこうと思います。

(引用)
>ところで「自己表現」系アーティストとしているような作曲者も、歌詞の主体をボカロやシーンのディスクール (厨二、あるあるネタ、などのコノテーションの強い言葉に訴える) へアウトソーシングしていて、作曲者自身の内面を表現しているような楽曲は少ないような気がしますがどうでしょうか。聴き手の側でも、かつてのロックやシンガーソングライターほど、直接歌い手のパーソナリティに物語の主体が結び付けられる傾向は薄いような。私の観測範囲の偏りのせいかな。
(引用終わり)

これはなるほどな、と思いました。たしかに作曲者自身や歌い手のパーソナリティが前面に出ているかと言えばそれは全く違います。むしろ物語作者と言ったらいいのかもしれないですね、ボーカロイドを役者とした。

ご存じのとおり小説には「私小説」というジャンルがあって、これは書き手のパーソナリティに直結した読みを誘うものです。最近の研究では、これはこれで小説の「私」に合うパーソナリティを書き手が私生活で演じてみせていたというような逆転もあったそうですが、それは余談として、一般的な小説は社会だったり物語だったりを書くわけですよね。その場合、必ずしもモデルがない人物が描かれることになる、そのモデルのない人物として機械音声はうってつけなのでしょう。
小説がマンガより今でも優位に立てる側面の一つとして、描写の抽象性が挙げられて、主人公などのイメージが特定されないからこそ読者が自分や自分の周りの環境を当てはめやすいというのがあると思いますが、ボーカロイドはそうした抽象性を確保したまま歌えるのですね。しかも印刷文字とは違って感情は込めて。

まあ、ボーカロイドについては自分が片手間に語るには大きくなりすぎてしまった感もあります。たぶんそのうち、音楽好きが語る対象ではなく、ボカロ専門家が語る対象になる気さえします。けれど、こう近くも遠くもない存在に目を向けることは実はけっこう大事だと思いますし、そういう距離感は維持し続けたいなと。そういう所存です。

2013.04.14 | Comments(0) | Trackback(0) | UTAU

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tieckP(ティークピー)

Author:tieckP(ティークピー)

だいたいどこでも曲を作って、自作曲には詞も書いてましたが、文章を読み書きするのが特技で、最近は欅坂46さんのブログや番組についてメモをとる日々です。乃木坂さんはずっと深川さん推しです。 twitterのアカウントも@tieckP。メールアドレスもtieckP+gmail.com(+の代わりに@で)です。お気軽に連絡どうぞ。

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